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2025
09Nov

「信じる者として」 瀬尾真結神学生

  • 今月の説教

※本日滝澤牧師不在のため、説教の音声版はありません。

 主にある皆さん、本日こうして皆さんと共に礼拝を守り、主の御言葉に聞く時を持つことができました幸いを、心から感謝いたします。
 まず、本日のお話をさせていただく前に、簡単に自己紹介をさせていただこうかと思います。私は、日本聖書神学校3年生の瀬尾真結と申します。日本聖書神学校は、日本基督教団認可神学校で唯一の夜間の神学校です。生徒たちは皆、昼はそれぞれの場で働き、夜になると学校へ来て神学を学ぶ、という2足の草鞋を履く生活を送っています。夜間学校、そしてまた超教派の学校であるという性質上、日本聖書神学校には様々な年代、様々な背景、様々な価値観を持つ方々が集ってこられます。牧師の家系に育った方もいれば、幼い頃から家族で教会に通っていた人、人生のある時点で衝撃的な神様との出会いがあって教会に招かれた人――与えられたタラントもそれまでの人生で得てきた経験も何もかもが違う私たちですが、神学の学びの前では不思議と一体感が芽生え、お互いの個性を尊重しつつ互いに協力しながら、神学の学びを深める時が与えられている幸いに与っております。
 さて、そんな私ですが、生まれは父方の祖父母の代から続くクリスチャンの家系で、三代目となる私自身も5歳になる少し前頃から教会に通っておりました。子どもというのは不思議なもので、物事の善悪や価値基準・判断基準が明確に定まり切る前から聖書の御言葉に触れて過ごすと、キリスト教の福音を「そういうもの」として当たり前に受け入れるようになるのだと、私自身の体験や、また、現在の実習教会に通っている子どもたちや、昨年度に実習でお世話になった聾学校の子どもたちを見ていると、強く思います。
 そしてそれは、ある側面においては、何物にも代えがたい恵みになります。“自分は罪人だ”“誰からも愛されない”そんな風に考えて生きるより、“私は神様に愛されている”“いつだって神様が私を守ってくださっている”そう信じて生きるほうが、ずっと人生は鮮やかなものになるでしょう。
 しかし成長していくにつれて、ひとつ悩みも出てきます。それは、「聖書の御言葉があまりに自然に馴染みすぎて、神の福音を感覚でしか理解できていない」という点です。牧師の家系で育った人についてはその限りではないかもしれませんが、“聖書の御言葉がなぜ「福音=良きおとずれ」なのか、自分の言葉で説明ができない”というのは、少なくとも一般のクリスチャンの家系で育った子どもにとってはあるあるなのではないでしょうか。
 そんな私も例に漏れず、成長していくにつれて、聖書を読むうちに「んん?」と首を傾げる箇所が増えてきました。そのうちのひとつとして挙げられるのが、本日読んでいただいた、ヤコブの手紙2章14節以下の箇所です。
 本日読んでいただいた箇所は、「行いを欠く信仰は死んだもの」という表題がつけられています。そしてその表題どおり、“キリスト者は信じているだけではダメだ”“信仰に伴う行動がなければ、真に「信じている」ということにはならないのだ”ということが語られています。ここだけ読めば、なるほど確かにと納得できますし、共感する部分も多くあります。言動不一致、つまり言っていることとやっていることが違う、というのは、多かれ少なかれ様々な場面でよく見られます。「困っている人には手を差し伸べる。それこそが人間として当然の姿だ!」と声高に主張しておきながら、実際目の前に“困っている人”が現れたらスルーしてしまう、というのでは、「人助けが大事って、それホントに思ってる?」と、疑われても仕方がありません。「本当に人助けが大事だと思っているのなら、実際にちゃんと人助けして見せてよ」と、誰もが思うのではないでしょうか。これと同じで、いくら口で「神を信じている」「キリストの福音を信じている」と口にしていても、実際の行動がそれに反するようなものだった場合、その人を見て、「あなたは本当に神を信じているのですか?」と、その人の信仰自体を疑ってしまう、というのも、ある意味当然のような気がします。
 しかし、そうは思っていても、実際に自分がどれだけ律法やキリストの教えを実践できているか、と考えると、自信をもって「すべて守っています!」と答えられる人は、ほぼいないのではないでしょうか。私自身、19歳の時に洗礼を受けましたけれども、洗礼を受けて、初めて聖餐に与ったその時、確かに、私の中の罪が赦され清められた感覚がありましたし、神の子として、キリストの家族として迎え入れられたことに対する喜びの感情もありました。昨日までの自分と今の自分は何かが違う、という感覚を、確かに感じていました。しかし他方で、「昨日までの自分と一体何が変わったんだ?」と疑問に思う自分も、確かにいたのです。洗礼を受けたからといって、自分という人間の価値観や考えが劇的に変わるわけではありません。洗礼を受けた後も、洗礼を受ける前の自分と同様、人の過ちは簡単には許せないし、困っている人に躊躇わず手を差し伸べられるようにはなりません。聖書を毎日熱心に読み込むようにもならなければ、「隣人を自分のように愛しなさい」という聖書の教えとは真逆の行動ばかりを繰り返すのです。
 そのような自分の姿を思い返すとき、このヤコブの手紙が言うように「人は行いによって義とされる」のであるならば、いつまで経ってもキリスト者として、神の家族として相応しい行いができない自分は、いつまで経っても義とされないのだろうか?救われないのだろうか?そんな疑問が浮かんできます。
 そう考えた時、ふと思い浮かぶのが、やはり「信仰義認」という考えなのではないでしょうか。カール・バルトの信仰義認論、すなわち「信仰によってのみ義とされる」という考え自体は、キリスト教とは縁のない人であっても人生で必ず1回は聞いたことがあるでしょう。また聖書の中にも、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」というローマの信徒への手紙3章28節の言葉や、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」というガラテヤの信徒への手紙2章16節の言葉があります。
 ロマ書やガラテヤ書の全体の文脈や、宗教改革期の状況など考慮しなければならない点は多々ありますし、そもそもパウロは信仰に至った後に行いが必要ないとは言っていないので、信仰義認についてはまた別途色々と考えなければならないことはあるのですが、それはそれとして、なるほど「信仰によって義とされる」、すなわち、信じることによって私たちは救われるのだ、という考えは、確かに福音であるように思われます。たとえどのような自分であっても、神はその罪を赦し、神の家族として招いてくださる。そのことは、私たちにとっては確かに福音なのです。
 しかしそれでも、ヤコブの手紙が告げようとしていることが頭をよぎるのです。ヤコブの手紙も、決して間違ったことは言ってない、むしろ正しいことを言っているのです。あちらを立てればこちらが立たず。パウロの言っている内容とヤコブの手紙で述べられていること、この一見矛盾することを言っているような聖書箇所は私たちに何を伝えたいのだろうか?そう、堂々巡りを繰り返しているうちに、ひとつの疑問が浮かび上がってきました。それが、そもそも「義とされる」とはどういうことだ?という問いです。
 「義とされる」という表現は、原典のギリシャ語版聖書では「δικαιόω」という動詞が使われています。これは「正しい」という意味の名詞「δίκαιος」から派生した単語で、原義としては「正しいと認める」とか「裁く/罰する」という意味になります。これを新約聖書、特にパウロは、主に「無罪判決を得る」といった意味で用いています。
 これらの意味から連想されるのは、やはり“裁判”の場面でしょう。人が「義とされる」というのは、本来ならば罪を受けるべき私たちが、キリストの十字架の死による贖いによってその罪が赦される、すなわち、「無罪判決を得る」ということなのです。
 しかし、ここで得た“無罪判決”というのは、決して私たち自身に罪を免じる理由があるからではありません。あくまでキリストが、私たちの罪を代わりに負ってくださり、それにより私たちがその罪により負うべき罰は免除された、というに過ぎないのです。例を挙げるならば、罰金刑を自分以外の誰かが肩代わりしてくれた、といった状況がそれに近いでしょうか。例えば、公職選挙法違反で罰金刑の判決が下った場合、本来自分が支払うべき罰金を、自分以外の誰か、例えば親や兄弟、友人などが代わりに支払ってくれたとしましょう。その場合、その人は自らが負うべき罰、ここで言うところの罰金を支払わなくて済みましたが、その人自身が公職選挙法違反を犯した罪人である、という事実は消えません。その人自身にはあくまで前科があり、それは実質的に罰金刑を免れたからといって変わることはありません。
 「義とされる」が意味するところの「無罪判決を得る」というのも、これに近いのではないでしょうか。確かに、私たちはキリストの贖いによって本来負うべき罰の執行からは免れています。しかしそれは、私たちが罪人でなくなることは意味しないのです。あくまで罪人の私たちを、神が“罪がない者として扱い、家族として迎え入れてくださる”、つまり、罪がない者と見做されているに過ぎない、ということなのではないでしょうか。
 とはいえ、神が私たちを“罪がない者として見做してくださる”というのは、現実世界とは異なり、私たちにとって確かに福音なのです。現実世界では、実質的に罰金刑を免れたからといって、公職選挙法違反を犯した過去はなかったことにはなりません。実際には、数年間の選挙権剥奪という実害があったり、変なレッテルを張られてご近所の噂になったりと、様々な面で不利益を被ることになります。
 しかし、聖書において「義とされる」とは、自らの罪のために被る不利益、具体的には、神の家族として招き入れられない、神の救いに与れない、といった不利益は、“罪がない者として見做される”ことにより生じなくなります。実質的に、神の前に「罪なき者」として扱われるのです。その点で確かに、聖書において「義とされる」とは、私たちにとっての福音、良きおとずれといえるでしょう。
 さて、そこまで考えたところで、ではヤコブの手紙の著者とパウロは、それぞれ何が言いたかったのか?という、最初の問いに戻ってきます。
 パウロはローマの信徒への手紙の中で、この信仰義認という考えを、割礼と異邦人の救いとの関係という文脈において言及しています。その文脈を考えると、パウロが言う「信仰によって義とされる」とは、私たちに救いが与えられるまさにその瞬間を、いわば点として捉えて見ているのではないでしょうか。私たち異邦人が、自らの罪を悔い改め、神の招きに与り、神の子として生きることを決めたまさにその瞬間――洗礼を受け、神によって新しく生まれ変わったその瞬間を特に強調して「義とされる」と考えているのであれば、確かに「義とされる」ためには神への信仰こそが重要なのでしょうし、その瞬間に私たちは神の子として絶対的に招かれた存在となり、そのことは永劫変わることのない恵みであるといえます。
 反面、ヤコブの手紙の著者は、神を信じると決めた後――洗礼を受け、キリスト者として、神の子として生きるようになった後も、なお「正しい者」として歩み続けることの必要性を説いているように思います。ヤコブの手紙の著者が考えている「義とされる」時点をあえて挙げてみるならば、それは“最後の時”なのではないでしょうか。私たちは、信仰によって、自らの罪をないものとして見做され、神の守りと祝福とに与って生きることが許されています。しかしその後、神の無償の愛による赦しに甘んじて神を顧みず、罪ある者としての歩みを続けたならば、その歩みを終え、最後の審判を迎えるとき、果たしてキリストは私たちを「義とされた者」とお認めくださるだろうか?最後の時にあって、「義とされた者である」と認められるためには、信仰と、それに見合った行動の両方が必要ではないだろうか?ヤコブの手紙の著者が伝えようとしているのは、そのことなのではないでしょうか。このように、「義とされる」時点を私たちの最後の審判の瞬間と捉えた場合、ヤコブの手紙の著者が言うように、信仰と、それに見合う行いが必要である、というのは全くもって正しいと言わざるを得ないでしょう。
 こうも言い換えられるかもしれません。パウロの言う「信仰によって義とされる」という場合の「信仰」とは、神を全く知らない状態の私たちが、神と出会い、聖書の御言葉を少しずつ知っていく中で神を信じ、福音に生きると決意する段階の「信仰」――具体例を挙げるとすれば、洗礼を受けると決意する段階での「信仰」といった、いわば“自ら学んで信仰に入る段階でのキリスト者の「信仰」の姿から、罪ある私たちはどうすれば神の救いに与ることができるのか”という視点で論じられた場合の「信仰」です。
 これに対し、ヤコブの手紙の著者の言う「信仰」は、信仰に入った後、主に生かされる者となった私たちキリスト者は、神を信じる者としてどのように歩むべきなのか。そういった、“信仰生活に入った後に求められる「信仰」の姿”を伝えているのではないでしょうか。
 そう考えれば、パウロの言っていることも、ヤコブの手紙の著者が言っていることも、どちらも正しく、また必要なことであるように思えてきます。
 さて、ここまでお聞きくださった皆様は、なんだかそろそろ疲れてきた、と思われるかもしれません。あるいは、「なんだか今日のお話は、まさに『お説教』という感じだったな。なんだか気が重くなってくるよ」、そう感じられたかもしれません。
 私自身、自分で話していて、30そこそこの若造が偉そうなことを喋ってるなと思います。自分自身、福音の道に生きる者として相応しい行いが日々できているかどうか、と今一度問われると、「まったくそんなことはない」と答えざるを得ないだろうな、と思います。
 では、これから私たちは、“信仰に生きる者”として、清く正しく生きるために今一度帯を締め直し、自らを律して強い心を持って日々歩んでいかなければならないのでしょうか?信じる者としての歩みは、そのように孤独で厳しい道のりなのでしょうか。
 私は、そうではないと思っています。
 ヤコブの手紙の著者は、1章17節に「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」と述べています。本日の箇所に引き付けて言い換えれば、“私たちが「正しき行い」をするとき、そのために必要なものはすべて神が備えてくださる”のです。私たちが自らの努力により必死になって正しくあろうとしなくとも、神を救い主であると仰ぎ、御言葉に生きようと願う者、すなわち“信仰に生きる者”であるならば、神が私たちを正しくあれるように導いてくださると思うのです。
 私が今実習に行っている経堂緑岡教会では、近所に住む子どもたちはもちろん、キリスト教主義学校に通う子どもたちや、その親御さんたちが多く通われており、毎週幼少科の分級は賑やかに行われています。幼少科の子どもたちの年代は、幼稚園に通い始めた年少さんから小学校高学年のお兄さんお姉さんまで様々ですが、子どもたちは自然とお互いを助け合い、仲良く共に交わりの時を過ごしています。小さい子どもたちが工作に手間取っていたらそっと助け船をあげたり、月初めのお誕生会のためにお菓子やジュースを用意している大人たちの姿を見て手伝ってくれたり。子どもたちの姿からは、そういったさりげない優しさが随所に感じられます。
 また、昨年度私は、神学校の実習で日本聾話学校に行ってまいりました。日本聾話学校――今年度から名称が変わって「聞こえの学校 ライシャワー学園」となりましたが――、この学校は、子どもたちに残された「音」を大事にし、手話を使わず会話によって聴覚主導の人間教育を行う、日本で唯一の聾学校です。この学校は、キリスト教の精神を大切にし、キリストの愛に根差したキリスト教教育を行っており、週1回の礼拝をはじめ、様々な場面で聖書の御言葉に触れ、祈り、賛美する生活を送っています。私も実習の中で、子どもたちが賛美をする場面を幾度となく見てきましたが、どの子も非常に真っ直ぐ、喜びに満ち溢れた表情で讃美歌を歌います。また、礼拝後の分級の時間では、子どもたちが当たり前のように神様を受け入れ、私たちが神に愛された存在であると知っていると感じさせられる言動がよく見られました。何よりも、子どもたちは皆無邪気でたいへん明るく、急に現れたよく分からない大人である私に対しても笑顔で手を差し伸べ、遊びの輪に加えてくれたりと、誰に対しても分け隔てなく迎え入れ、共に過ごしています。
 そのような子どもたちの姿を見ていると、これこそが、“信仰に生きる”ということなのではないかな、と感じます。子どもたちは、「聖書の御言葉に従わなくちゃ」「神様の前に恥ずかしい人間にならないように清く正しく生きなくちゃ」と自らを厳しく律しながら生きているのではありません。ただ神の愛を一身に受け、そのことが喜びであると全身で表しているにすぎないのです。ですが、そのような子どもたちの姿から、神の救いや愛の豊かさを感じる人は、きっと多いのではないかと思います。
 同じことは、子どもたちに限らず、私たち全員に起こり得ることだと思います。私たちがした何気ない声掛けや行動が誰かを救うこともあれば、誰かの背中を見て信仰の指針が示された、ということは、教会という信仰共同体に集う者たちの中では往々にして起こり得ることです。例えば、先週は召天者記念礼拝が多くの教会で持たれておりましたが、葬儀の場というのは、召された方がどのようにして信仰に生きたかを改めて感じることのできる大切な場であり、それを思い起こすことによって、私たちのような信仰の友や、あるいはまだキリスト教と出会っていないご遺族の方々は、信仰に生きることの喜びを改めて心に刻むことができるのです。
 そのように、私たちは、ただ主の愛の内に生きることを喜んで生活しているうちに、多かれ少なかれ、神の福音を証しする者へと神によって導かれているのだと思います。そしてそのように生きる人生というのは、安心と喜びに満ちた、なんと幸せなものだろうと、そう思うのです。
 これからも、神の導きに従い、神の御心の内に生きる者、信仰に生きる者としての歩みを続けていくことができますよう、心から主に願うものであります。

四谷快談 No.241 くま

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